2024年10月18日金曜日

【炭鉄港ミニツアーとは?~鉄分補給ツアーに参加】

JRヘルシーウォーキングのコースマップに、“日本遺産「炭鉄港」ガイド付きミニツアー” のお知らせが掲載されていることがあります。これって何? と気になった方もおられるかと思います。

今年は、イベントウォーク開催時に全5回、小樽・室蘭・江別・追分・岩見沢で実施されました。今回は、このツアーについて、ご紹介します。

最初に、日本遺産「炭鉄港」について。

・日本遺産とは:地域の歴史的魅力や特色を通じ、我が国の文化・伝統を語るストーリーのこと。文化庁が認定。

詳しくは → https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/

・炭鉄港とは:北海道内、空知の炭鉱、室蘭の鉄鋼、小樽の港湾、それらをつなぐ鉄道を舞台に繰り広げられた産業革命のストーリーのこと。

詳しくは → https://3city.net/

「炭鉄港」を広く知ってほしい、理解を深めてほしい、ということで、このツアーは始められたようです。「炭鉄港」を構成する文化財がある場所でイベントウォークが開催される場合、コラボ企画としてミニツアーが開催されています。

なにやら難しそうな内容のツアーと思われるかもしれませんが、普通(?)の “まち歩きツアー” となんら変わりません。豊富な知識を持ったガイドさんの説明を聞きながらのまち歩きです。質問にも、丁寧に答えてくださいます。

ツアーの時間は60~120分。参加費は500~3.000円。(いずれも今年の場合。ツアーにより時間・参加費は異なります) 事前予約が必要ですが、空きがある場合は、当日の申し込みも可能なようです。JRヘルシーウォーキングの参加者には、1ポイントをプレゼントしてくれのも嬉しいところです。

※ 画像ですが、ツアー時以外のものも含まれています。

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9月7日に安平町追分地区(旧追分町)で実施された「鉄道の町あびらを巡る! 炭鉄港 鉄分補給ツアー(中級者編)」に参加しました。 追分は、室蘭本線と石勝線が交差するところ(注)で、かつては鉄道のまちとして栄えました。

(以前は、室蘭本線から夕張線が分岐しており、後に、夕張線が石勝線に編入されました。

2017.5の撮影画像です。日高本線の “鵡川~様似” 間が不通(現在は廃止)になった際、日高線用の車両(キハ40形)が、石勝線や室蘭本線でも使われるようになりました。日高といえば馬産地。お馬さんのイラストが描かれています。

コチラがツアーの案内となります。

スタート地点は追分駅。ゴールは「道の駅あびらD51ステーション」。時間は80分の予定。約1kmの道のりです、今回の参加費は、1.000円でした。

主催者側のご挨拶。ガイドされるのは、安平町教育委員会の学芸員です。

最初に向かったのは、駅前に保存されているSLの動輪でした。

案内板があると助かる、と思わずガイドさんの本音(?)が。既に知識が頭の中に入っているとはいえ、それを伝えるとなると大変なのでしょうね。

説明板をアップします。

ここで強調されたのは、「(台座の)レールの刻印を見てほしい!」ということでした。

説明を聴きながら、レールを見ます。こちらは右側。

カーネギー社エドガー・トムソン製鉄所(ET)が1900(明治33)年に製造したもの。発注は、北海道官設鉄道(北海道庁)です。(画像ですが、道庁の刻印は写っていませんでした)

こちらは、左側のレール。

1898(明治31)年にアメリカ・イリノイ州で生産。最初は阪鶴鉄道(私鉄)で、後に追分機関区転車台の側線として使われたレール。

・参考リンク:Wikipedia「阪鶴鉄道

レール側面の刻印から、製造会社・製造年・発注元といった情報を得られるのですね。追分地区には、このような動輪のモニュメントは5ヶ所に設置されているのことです。

レール以外にも、追分という名前が付けられた理由、由仁から夕張線(現 石勝線)が分岐し機関区も作られる予定だったこと等、説明がありました。(もし計画通りに由仁町に作られていたら、追分はどうなっていたのでしょう)

駅からまっすぐ東に伸びる道を眺めます。

そして、昔の写真を見ながら、説明を受けます。

ほとんど変わっていないことに驚く私たち。

先ほど説明のあった道を進みます。途中から坂に。

この道ですが、Google Mapでは「SL街道」という名前で記されています。しかし、看板は無いし、地元の人も知らないし…。本当のところは、どうなのでしょう?

歩きながら、この地区(に限らないのですが)で鉄道の線路が川に沿って敷設されていることが多い理由の説明がありました。鉄道が苦手とする勾配とカーブを回避するためです。

坂道の突き当りにあるのが追分小学校です。敷地内の高台には、SLの動輪が保存されていました。

ご注意 : 動輪が保存されている場所は、追分小学校の敷地内です。訪問される際は、事前に学校に連絡し、許可を受けるようお願いいたします。

D51 929号機のもの。

レールは、1907(明治40)年にエドガー・トムソン製鉄所で製造されたもの。注目すべきは、発注元です。

消えかかっていますが、お分かりになりますか? “IRJ” 。Imperial Railways of Japan、日本帝国鉄道です。

※ 札幌市にある北海道鉄道技術館では、刻印がしっかりしたレールを見ることが出来ます。1907(明治40)年、ドイツのライン社製造。函館本線の複線化の時に使用されたとのことです。(2024.9撮影)

高台からの眺望は、草木に遮られ良くありません。白い建物は、追分駅を含むJR関連施設です。

かつてはここから巨大な追分機関区が見えたとのこと。

夜はものすごい明るさで、機関区近くでは、人の顔をはっきりと判別できる程だったとか。最盛期には、D51以外にも、D50形や9600形など60両が在籍。機関区の大きさに驚かさます。

来た道を引き返し、追分小学校の前の通りを少しだけ下りたら右折。そして、真っ直ぐに進み、突き当りを右折します。

しばらく坂を上り、ゴールの「道の駅」に着きました。

まずは、屋外展示を見学します。キハ183系が保存されていますが、こちらはサラッと説明を。下の画像の車両説明に力を入れていました。

現在では、殆ど見ることはないかもしれません。緩急車(車掌車)です。

・緩急車:(貨車の場合)貨物を搭載する車両に車掌や制動手が乗り込む場所を取り付けてあるもの、列車にブレーキをかける装置が搭載されています。

・車掌車:緩急車のうち、貨物を搭載できない車両。

車両には、形式によってアルファペットや数字、カタカナが付けられています。キハ183系の「キハ」とかです。今回は細かな説明はありませんでしたが、知っていると役に立つかもしれません。

車掌車の「ヨ」という記号の意味、これはちょっと難しいかも。当初、車掌車は用務車と呼ばれていたことから、「ヨ」と付けられました。ところで、“用務” という言葉、最近は、あまり目(耳)にしないように思います。

建物裏側のモニュメントへ。

(当時)国鉄で、本線上を最後に走っていたのが241号機。苗穂工場で製造され、引退するまで追分機関区所属。それが・・・。保存される予定でしたが、機関庫が火事となり被災。せめて動輪と煙室扉だけでも、と展示されています。

火災の原因は、分かっていません。機関庫は木造。長年溜まった煤(すす)などもあり、あっという間に火が燃え広がったそうです。

動輪と煙室扉は、241号機が在籍していた、かつての追分機関区の方を向いているのですね。

ここでもレールの説明がありました。刻印は消えています。1917(大正6)年、北九州の官営八幡製鐵所で製造されたとのこと。外国産のレールから、八幡製鐵所製の国産レールが使用されるようになったのには,日清戦争も関係しているのです。レールから、歴史が見えてくるのですね。

道の駅に併設されている「鉄道資料館」に入ります。(道の駅の開業前は、同館は追分駅の北西側にありました)

こちらには320号機が保存。


241号機が無事だったなら、こちら320号機が解体される運命でした。世の中、どうなるかわかりませんね。

このD51一両で、2.400トンもの石炭を運んだそうです。3.200トンまで運べたものの、安全面から2.400トンに落ち着いたとのことです。

各種資料が掲示されており、説明を聞きながら見ていきます。

例えば。



ガイドさん曰く、「このSLは北海道一、いや全国一綺麗ではないか」と。


再塗装はされておらず、丁寧に磨かれているだけとのことです。「手をふれないように」という注意書きがありました。油を使用して磨かれているので、触るとベトベトになるからです。気をつけましょう。

画像を取り忘れたのですが、北海道の一部のSLには、運転席にドアが設置されていました。防寒の為です。しかし、(このドアは)運転士には必ずしも好評ではなかったようです。

鉄道資料館を出たところでツアーは終了。解散となりました。(他にも、多くのことを説明していただきました) 鉄道車両などの細かな説明というより、炭鉄港の中で追分の鉄道がどのような役割をしたのかを掘り下げるような内容が中心でした。中級者編と謳っていますが、鉄道のことを知らなくても楽しめる内容ではないかと思います。

いかがでしたか? ツアーの雰囲気、少しでも伝わっているのであれば嬉しいです。

現時点では。来年の “炭鉄港ミニツアー” については分かっておりません、実施される場合は、参加されてみてはいかがでしょうか。

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ツアー終了後に、他の動輪も見に行きました。

追分中学校に保存されている動輪と煙室扉です。(中学校の敷地内なので、無断で立ち入ることのないようお願いいたします。画像は敷地外から撮影)


煙室扉はC58 411号機のもの。動輪はD51 237号機と台座に書かれていますが・・・。D51 710号機のものようです。(参考文献より) 2018(平成30)年に発生した北海道胆振東部地震の影響で、動輪が線路から落ちて、そのままの状態となっています。

※ 237号機は、JR北海道苗穂工場に静態保存されています。(2024.9撮影)


(追分中学校では〉近くに寄ることができないので、レールの刻印は確認できませんでした。参考文献によると、1954(昭和29)富士製鉄釜石製鉄所の製造とのことです。

こちらは追分公民館に展示のD51 483号機の動輪。

レールは、1960(昭和35)年、富士製鉄釜石製鉄所の製造とのこと(参考文献より)。サビで刻印は消えていました。

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※ 今回の投稿をするにあたり、ツアー当日の説明とともに、以下の文献も参考にしました。(追分町は、2006年に早来町と合併し、現在は安平町追分地区となっています)

・追分町史編さん室 『追分町史』、1986年6月

・追分町郷土研究会『ふるさとの道』、追分町教育委員会社会教育課、2001年2月

・『蒸気機関車EX  Vol.23』、イカロス出版、2016年1月

・星 良助『昭和30~40年代 北海道の鉄路』、北海道新聞社、2019年9月

・北海道博物館 『みんなの鉄道-がんばれ! 地域の公共交通-』、(一財)北海道歴史文化財団、 2024年6月


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