2024年10月28日月曜日

【2024年JRヘルシーウォーキング参加記〈発寒駅〉】

10月26日、発寒駅でイベントウォークが開催されました。

発寒(駅)。札幌市にお住まいの人以外には、馴染みがないかもしれません。札幌駅からJR函館本線の小樽方面行きの普通列車に乗車すると、桑園、琴似、発寒中央と停まり、そして発寒駅に着きます。発寒という地名は、発寒川から来ています。「ハチャム・ペッ」(サクラドリ(=ムクドリ)のいる・川)と、アイヌ語由来なのです。(「ハチャム・ペッ」の意味ですが、諸説あります)

・参考リンク:札幌市「地区別の歴史/札幌市西区

コースマップはコチラです。(新しいウィンドウで開きます)

歩き始めます。スタートは、発寒駅北口です。

北口側には、鉄工団地があります。1961(昭和36)年の国の工場集団化制度によって、札幌市中心部にある企業が、次々と移転してきたのです。ちなみに、発寒駅の南側は、木工団地があります。(以前より規模は縮小しましたが)

・参考リンク:北章宅建「ものづくりの顔を持つ札幌市西区発寒地区と発寒地区誕生の秘話」(不動産屋さんのスタッフプログですが、地域のことなどを取り上げており興味深いです)

駅前(北口側)には、大きな製鉄所があります。「JFE条鋼」さん。JFEスチール傘下の鉄鋼メーカーです。

JFEといえば…。関連会社の「Jファーム」さんで、ミニトマトなどを生産しています。これが美味しいのです。札幌市内では、丘珠地区にあります。直売所「ピリカ札幌」さんが併設されており、購入できますよ。

・参考リンク:札幌市「ピリカ札幌

マルちゃんでお馴染みの「東洋水産」さんがありました。

こちらは冷蔵庫で、“やきそば弁当” や  “赤いきつね”、“緑のたぬき” といった即席麺は、小樽市銭函工場で作られています。

新川の築堤上の道を進みます。

発寒西陵公園で新川とお別れです。

ここでは、少年野球が行われていました。少年たちの元気が、羨ましいですねぇ。

ここからしばらくは、市街地を直進します。そして、西発寒跨線橋を渡ります。橋の上からは、三角山が。

手稲山も見えますね。

地下鉄東西線の宮の沢駅に着きました。

この辺りは、繁華街となっています。閉店した「西友宮の沢店」の跡には、「マックスバリュー」さんが入店しました。(右側の白い建物) オープンは、なんと本日26日でした。

「白い恋人パーク」に入ります。

ハロウィーン間近なので、カボチャがいっぱい。

こちらも、写真を撮っている人が多くいました。

さすが人気の観光地です。日本人はもちろんのこと、中国語圏(中国や台湾など)、イスラム圏(マレーシア?)からの外国人観光客も目立ちました。

「白い恋人パーク」から「宮丘公園」へ。

それほど急な坂ではありませんが、きつく感じました。

ここで、ひと休み。

ここから見る札幌中心部方向。(どちらかというと、中心部より北側です)

反対側です。

ひと休みして、元気をチャージ(?)。公園を出て、道なりに坂を下り、札樽自動車道をくぐります。

国道5号線との交差点近くに来ました。

交通量の多いところです。歩いていると、風に乗って “焼き肉” の美味しそうなにおいが…。これはたまりません。ビール、290円ですか? 容赦なく、誘惑してきます。

そして、「あと約1km」。

ここを通過したらラストスパートです。といっても、スピードは上がらず、のんびりとお散歩気分。

ゴールの発寒駅南口、到着です。

南口の左側に「発寒駅開設記念碑」がありました。

特別出演です。駅外で休んでいたところ、リードを付けられたネコちゃんが、私の足にスリスリ。飼い主さんの許可を得て、撮影しました。(大きめのネコでした。何という品種なのでしょう?)

最後に、歩いての感想などを。発寒駅を利用したのは、今回が初めてでした。鉄工団地を歩いたのも初めて。「白い恋人パーク」や「宮丘公園」も。初めてづくしのコースでした。

「白い恋人パーク」は、ワクワク感はありませんでした(多分、歳のせい?)が、「宮丘公園」は良かったです。

車などではよく通るところでも、歩いてみると、目に入る景色は違って見えるものですね。今回も、楽しませていただきました。

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ウォーキングの後は食事です。発寒駅前に飲食店は “ほぼ” 無いので、札幌駅へ移動。改札内にある「蕎麦紀行」さんの前を通ると、魅力的な幟(のぼり)が立っていました。(お客さんがいたので、撮影は遠慮しました)

店内にあったメニューの画像です。

カレー、かき揚げ(それも海鮮入り)、そば。私の好きなもののコラボです。これは、もう食べるしかないでしょう。

来ました。

私にとって “間違いないやつ” でした。ごちそうさまでした。

※ 滝川駅から徒歩10分くらいのところにある「まるかつ」さんでは、1年を通してこちらと同じような蕎麦(カレーそば + 天ぷら)をいただけます。過去に投稿しておりますので、よろしければお読みください。

・「そば一杯450円~滝川〈まるかつ〉」(リンク)


2024年10月22日火曜日

【沢歩きをして石炭露頭を見に行きました】

※ 2024.10.24更新。画像を追加しました。

面白そうなまち歩きがないかと思って調べていたところ、見つけたのがこのイベントでした。

・《ぷらぷらまち歩きSPL! in石炭露頭調査隊》 コチラ(リンク)に載っています。(⑪です)

・「そらち★ヤマの記憶だより」(リンク)の方が、より詳しいです。

川にある石で歩きにくいとはいえ、勾配がほとんど無く、体力的にきつくないとのこと。沢歩きをしたことのない自分でも大丈夫!と思い、参加することにしました。

開催日は10月20日。この日、私の住む札幌は初雪が降りました。朝、車を見ると…。


ボンネットやルーフに、少々積もって(?)いました。ちょっと早くないですか?

気を取り直して、開催地の岩見沢市毛陽町に向かいます。距離は55kmほど。一般道を通り、1時間少々です。

集合場所に到着です。天気は曇り。気温は低めですが、風が無いため、それほど寒く感じません。(この日の岩見沢市ですが、最低気温は3.5℃、最高気温9.3℃でした)

受付を済まします。その際、「昨日からの雨で川が増水しており、引き返す可能性もあり。そして、過酷なものとなりそう」と説明を受けました。えー、過酷?

10時となり出発します。今回のガイドは、NPO法人炭鉱の記憶推進事業団の平野義文理事長。他に、同法人の理事である夕張市石炭博物館の石川成昭館長やスタッフ数名、そして、この場所に詳しい地元の方も同行。総勢37名です。平野さん曰く、「こんなにマニアックな人が集まるとは思わなかった」と。女性の参加者も多かったです。

途中、“熊のお墓” がありました。

いよいよ沢歩きになります。普段は水が少ないとのことですが・・・。

えー! ここを歩くんですか?(なにしろ沢歩きは初めてなので)

長靴必須でしたが、私の用意したのは丈が短い。容赦なく、中に水が入ってきます。

最初の2,3回は気をつけていましたが、後は自棄糞(やけくそ)に。長靴に水が入ることを気にしていられなくなりました。川底は滑るし、水に流されそうになりますが、前の人に続いて慎重に歩きます。(実は、1回転びました)

川から岸に上がる時に、地盤が柔らかかったり段差があったりで、大変なところがあります。その場合は、助け合い。良いですね。

川は幾重にも蛇行しています。少しでも歩きやすいところを、ということで、片道につき20回程度は川を渡りました。陸地では、薮をかき分けての移動。こういう時に、けもの道があると歩きやすかったです。

少々休憩します。

熊が住んでいる場所に、私たちがお邪魔したのですが、これだけ人数がいると安心かな?

このようなものが、転がっていました。

植物が石化したもので、炭化はまだ。そのため重いのです。

もちろん、石炭も。

他にノジュールもありました。(画像は撮り忘れです) 説明が難しいので、こちらをどうぞ → Wikipedia「団塊」(リンク)

沢を流れる川を撮ったのですが、右側の木に “気になる” ものが。

出たぁ! 熊の爪痕です。

時間が経っているので、幅が広くなっています。熊がいることは間違いありません。

このような人工物もありました。

水で流されてきたのではなく、上からずり落ちてきたようです。

そして、お目当ての石炭の露頭です。川の増水で、近寄れませんでした。

遺構がありました。この辺りが、炭鉱跡のようです。


橋脚と思われる構造物の上には、レールも見えますね。

こちらは、碍子(がいし)です。(散らばっていたのを集めてくれました)

このような滝も、見ることができましたよ。

この先に大露頭があるとのことですが、時間的な問題から、行くことは断念。食事休憩を取ることになりました。休憩後は、来た道、ではなく沢を引き返し(途中からは沢を離れ)、無事に戻ることができました。

昔は、このようにして石炭層を見つけたんですね。先人のあくなき探究心や情熱に、頭の下がる思いがしました。

普段、山歩きや沢歩きをしている方にとっては、大したことではないかもしれませんが、私にとっては少々過酷でした。では、これが嫌だったかというとそうではなく、非日常を体験できて、意外と楽しかったです。体は…。翌日はあちこち痛かったですが。

来年も開催されれば参加かな?(← あっ、鬼が笑っているかも)


2024年10月18日金曜日

【炭鉄港ミニツアーとは?~鉄分補給ツアーに参加】

JRヘルシーウォーキングのコースマップに、“日本遺産「炭鉄港」ガイド付きミニツアー” のお知らせが掲載されていることがあります。これって何? と気になった方もおられるかと思います。

今年は、イベントウォーク開催時に全5回、小樽・室蘭・江別・追分・岩見沢で実施されました。今回は、このツアーについて、ご紹介します。

最初に、日本遺産「炭鉄港」について。

・日本遺産とは:地域の歴史的魅力や特色を通じ、我が国の文化・伝統を語るストーリーのこと。文化庁が認定。

詳しくは → https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/

・炭鉄港とは:北海道内、空知の炭鉱、室蘭の鉄鋼、小樽の港湾、それらをつなぐ鉄道を舞台に繰り広げられた産業革命のストーリーのこと。

詳しくは → https://3city.net/

「炭鉄港」を広く知ってほしい、理解を深めてほしい、ということで、このツアーは始められたようです。「炭鉄港」を構成する文化財がある場所でイベントウォークが開催される場合、コラボ企画としてミニツアーが開催されています。

なにやら難しそうな内容のツアーと思われるかもしれませんが、普通(?)の “まち歩きツアー” となんら変わりません。豊富な知識を持ったガイドさんの説明を聞きながらのまち歩きです。質問にも、丁寧に答えてくださいます。

ツアーの時間は60~120分。参加費は500~3.000円。(いずれも今年の場合。ツアーにより時間・参加費は異なります) 事前予約が必要ですが、空きがある場合は、当日の申し込みも可能なようです。JRヘルシーウォーキングの参加者には、1ポイントをプレゼントしてくれのも嬉しいところです。

※ 画像ですが、ツアー時以外のものも含まれています。

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9月7日に安平町追分地区(旧追分町)で実施された「鉄道の町あびらを巡る! 炭鉄港 鉄分補給ツアー(中級者編)」に参加しました。 追分は、室蘭本線と石勝線が交差するところ(注)で、かつては鉄道のまちとして栄えました。

(以前は、室蘭本線から夕張線が分岐しており、後に、夕張線が石勝線に編入されました。

2017.5の撮影画像です。日高本線の “鵡川~様似” 間が不通(現在は廃止)になった際、日高線用の車両(キハ40形350番台)が、石勝線や室蘭本線でも使われるようになりました。日高といえば馬産地。お馬さんのイラストが描かれています。

コチラがツアーの案内となります。

スタート地点は追分駅。ゴールは「道の駅あびらD51ステーション」。時間は80分の予定。約1kmの道のりです、今回の参加費は、1.000円でした。

主催者のご挨拶。ガイドを務めるのは、安平町教育委員会の学芸員の方です。

最初に向かったのは、駅前に保存されているSLの動輪でした。

案内板があると助かる、と思わずガイドさんの本音(?)が。既に知識が頭の中に入っているとはいえ、それを伝えるとなると大変なのでしょうね。

説明板をアップします。

ここで強調されたのは、「(台座の)レールの刻印を見てほしい!」ということでした。

説明を聴きながら、レールを見ます。こちらは右側。

カーネギー社エドガー・トムソン製鉄所(ET)が1900(明治33)年に製造したもの。発注は、北海道官設鉄道(北海道庁)です。(画像ですが、道庁の刻印は写っていませんでした)

こちらは、左側のレール。

1898(明治31)年にアメリカ・イリノイ州で生産。最初は阪鶴鉄道(私鉄)で、後に追分機関区転車台の側線として使われたレール。

・参考リンク:Wikipedia「阪鶴鉄道

レール側面の刻印から、製造会社・製造年・発注元といった情報を得られるのですね。追分地区には、このような動輪のモニュメントは5ヶ所に設置されているのことです。

レール以外にも、追分という名前が付けられた理由、由仁から夕張線(現 石勝線)が分岐し機関区も作られる予定だったこと等、説明がありました。(もし計画通りに由仁町に作られていたら、追分はどうなっていたのでしょう)

駅からまっすぐ東に伸びる道を眺めます。

そして、昔の写真を見ながら、説明を受けます。

ほとんど変わっていないことに驚く私たち。

先ほど説明のあった道を進みます。途中から坂に。

この道ですが、Google Mapでは「SL街道」という名前で記されています。しかし、看板は無いし、地元の人も知らないし…。本当のところは、どうなのでしょう?

歩きながら、この地区(に限らないのですが)で鉄道の線路が川に沿って敷設されていることが多い理由の説明がありました。鉄道が苦手とする勾配とカーブを回避するためです。

坂道の突き当りにあるのが追分小学校です。敷地内の高台には、SLの動輪が保存されていました。

ご注意 : 動輪が保存されている場所は、追分小学校の敷地内です。訪問される際は、事前に学校に連絡し、許可を受けるようお願いいたします。

D51 929号機のもの。

レールは、1907(明治40)年にエドガー・トムソン製鉄所で製造されたもの。注目すべきは、発注元です。

消えかかっていますが、お分かりになりますか? “IRJ” 。Imperial Railways of Japan、日本帝国鉄道です。

※ 札幌市にある北海道鉄道技術館では、刻印がしっかりしたレールを見ることが出来ます。1907(明治40)年、ドイツのライン社製造。函館本線の複線化の時に使用されたとのことです。(2024.9撮影)

高台からの眺望は、草木に遮られ良くありません。白い建物は、追分駅を含むJR関連施設です。

かつてはここから巨大な追分機関区が見えたとのこと。

夜はものすごい明るさで、機関区近くでは、人の顔をはっきりと判別できる程だったとか。最盛期には、D51以外にも、D50形や9600形など60両が在籍。機関区の大きさに驚かさます。

来た道を引き返し、追分小学校の前の通りを少しだけ下りたら右折。そして、真っ直ぐに進み、突き当りを右折します。

しばらく坂を上り、ゴールの「道の駅」に着きました。

まずは、屋外展示を見学します。キハ183系が保存されていますが、こちらはサラッと説明を。下の画像の車両説明に力を入れていました。

現在では、殆ど見ることはないかもしれません。緩急車(車掌車)です。

・緩急車:(貨車の場合)貨物を搭載する車両に車掌や制動手が乗り込む場所を取り付けてあるもの、列車にブレーキをかける装置が搭載されています。

・車掌車:緩急車のうち、貨物を搭載できない車両。

車両には、形式によってアルファペットや数字、カタカナが付けられています。キハ183系の「キハ」とかです。今回は細かな説明はありませんでしたが、知っていると役に立つかもしれません。

車掌車の「ヨ」という記号の意味、これはちょっと難しいかも。当初、車掌車は用務車と呼ばれていたことから、「ヨ」と付けられました。ところで、“用務” という言葉、最近は、あまり目(耳)にしないように思います。

建物裏側のモニュメントへ。

(当時)国鉄で、本線上を最後に走っていたのが241号機。苗穂工場で製造され、引退するまで追分機関区所属。それが・・・。保存される予定でしたが、機関庫が火事となり被災。せめて動輪と煙室扉だけでも、と展示されています。

火災の原因は、分かっていません。機関庫は木造。長年溜まった煤(すす)などもあり、あっという間に火が燃え広がったそうです。

動輪と煙室扉は、241号機が在籍していた、かつての追分機関区の方を向いているのですね。

ここでもレールの説明がありました。刻印は消えています。1917(大正6)年、北九州の官営八幡製鐵所で製造されたとのこと。外国産のレールから、八幡製鐵所製の国産レールが使用されるようになったのには,日清戦争も関係しているのです。レールから、歴史が見えてくるのですね。

道の駅に併設されている「鉄道資料館」に入ります。(道の駅の開業前は、同館は追分駅の北西側にありました)

こちらには320号機が保存。


241号機が無事だったなら、こちら320号機が解体される運命でした。世の中、どうなるかわかりませんね。

このD51一両で、2.400トンもの石炭を運んだそうです。3.200トンまで運べたものの、安全面から2.400トンに落ち着いたとのことです。

各種資料が掲示されており、説明を聞きながら見ていきます。

例えば。



ガイドさん曰く、「このSLは北海道一、いや全国一綺麗ではないか」と。


再塗装はされておらず、丁寧に磨かれているだけとのことです。「手をふれないように」という注意書きがありました。油を使用して磨かれているので、触るとベトベトになるからです。気をつけましょう。

画像を取り忘れたのですが、北海道の一部のSLには、運転席にドアが設置されていました。防寒の為です。しかし、(このドアは)運転士には必ずしも好評ではなかったようです。

鉄道資料館を出たところでツアーは終了。解散となりました。(他にも、多くのことを説明していただきました) 鉄道車両などの細かな説明というより、炭鉄港の中で追分の鉄道がどのような役割をしたのかを掘り下げるような内容が中心でした。中級者編と謳っていますが、鉄道のことを知らなくても楽しめる内容ではないかと思います。

いかがでしたか? ツアーの雰囲気、少しでも伝わっているのであれば嬉しいです。

現時点では。来年の “炭鉄港ミニツアー” については分かっておりません、実施される場合は、参加されてみてはいかがでしょうか。

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ツアー終了後に、他の動輪も見に行きました。

追分中学校に保存されている動輪と煙室扉です。(中学校の敷地内なので、無断で立ち入ることのないようお願いいたします。画像は敷地外から撮影)


煙室扉はC58 411号機のもの。動輪はD51 237号機と台座に書かれていますが・・・。D51 710号機のものようです。(参考文献より) 2018(平成30)年に発生した北海道胆振東部地震の影響で、動輪が線路から落ちて、そのままの状態となっています。

※ 237号機は、JR北海道苗穂工場に静態保存されています。(2024.9撮影)


(追分中学校では〉近くに寄ることができないので、レールの刻印は確認できませんでした。参考文献によると、1954(昭和29)富士製鉄釜石製鉄所の製造とのことです。

こちらは追分公民館に展示のD51 483号機の動輪。

レールは、1960(昭和35)年、富士製鉄釜石製鉄所の製造とのこと(参考文献より)。サビで刻印は消えていました。

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※ 今回の投稿をするにあたり、ツアー当日の説明とともに、以下の書籍も参考にしました。(追分町は、2006年に早来町と合併し、現在は安平町追分地区となっています)

・追分町史編さん室 『追分町史』、1986年6月

・追分町郷土研究会『ふるさとの道』、追分町教育委員会社会教育課、2001年2月

・『蒸気機関車EX  Vol.23』、イカロス出版、2016年1月

・星 良助『昭和30~40年代 北海道の鉄路』、北海道新聞社、2019年9月

・北海道博物館 『みんなの鉄道-がんばれ! 地域の公共交通-』、(一財)北海道歴史文化財団、 2024年6月

これらの書籍は、安平町追分公民館図書室で用意していただました。この場をお借りして、お礼申し上げます。